原因があるから結果がある。因果である。
時に宗教的な意味で語られたり、哲学として、ビジネスノウハウとして、処世術として、
私達の身近なところの存在する、事実だ。
火のないところに煙は立たぬ。
時に宗教的な意味で語られたり、哲学として、ビジネスノウハウとして、処世術として、
私達の身近なところの存在する、事実だ。
火のないところに煙は立たぬ。
しかし、すべての原因と結果に因果関係が成立するわけではない。
原因と結果の相関関係には、度合いがある。
因果にすごく関係があるものと、そんなに関係のないけど、そう思い込んでしまうような場合がある。
例えば「風吹けば桶屋が儲かる」は、因果の結びつきは疑う余地がある。
大風で土ぼこりが立つ
土ぼこりが目に入って、盲人が増える
盲人は三味線を買う(当時の盲人が就ける職に由来)
三味線に使う猫皮が必要になり、ネコが殺される
ネコが減ればネズミが増える
ネズミは桶をかじる
桶の需要が増え桶屋が儲かる
土埃がたてば、必ず眼に入るのか?目に入ったら盲人になるのか?
盲人は三味線を買うのか?・・・
最終的な「桶屋が儲かる」という段階にまで行くにはどれだけの道のりか。
受験も似たようなものだ。
「勉強すれば合格できる」
当たり前なのだろうか。火のないところに煙は立たぬ、か。
すべての勉強は合格にいたるのか。
それは違う。
勉強と合格の結びつきは100%か。
そんなことはない。
勉強と結果とは本来、異なった事象である。
「火」と「煙」のような物理的な関係はないからだ。
「勉強」と「合格」の間の隔たりに、受験の難しさがある。
勉強と結果とは本来、異なった事象である。
「火」と「煙」のような物理的な関係はないからだ。
「勉強」と「合格」の間の隔たりに、受験の難しさがある。
原因のないところには、結果は生まれない。
もちろん、勉強せねば結果は得られない。
その土台に立った上で、次は「この行動は結果に至るのか」が問題だ。
その土台に立った上で、次は「この行動は結果に至るのか」が問題だ。
その答えは、考えぬいた先にある。
たった一つの答えはない。
それぞれにベストな答えがある。
各々のスタート地点は異なるのであり、
ベースであるその人の性質・性格が違うからだ。
自分の答えは、自分で出すしかないのである。
必要なのは、考えることだ。
考えることで、私たちはどんな壁だって乗り越えることができる。
考えれば、自ずと答えは見つかるはずだ。
考えぬ行動に結果はない。
考えぬ行動に結果はない。
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