母親が入院して感じたこと

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羊蹄山
2014年7月 北海道 羊蹄山

先月母親が入院することになった。

大ごとではない。母親はもともと肌が弱く、アトピーの持病を持っていた。ステロイドを使った治療を続けてきたが、それももう高齢と言われる母親には毒となるということで、脱ステロイドに踏み切った。結果、当然だがステロイドによって抑えていたものを表面化することとなった。

日常生活にも支障をきたし、髪の毛が抜けるなどの症状にも至るようになったし、ここは1度しっかり治療に専念しましょう、ということで入院することとなった。死に至る病などではなかった。

入院中に出会った母親は、とても小さく見えた。髪の毛もかなり抜けてしまったし、文字通り小さくなったのは事実である。顔のシワは以前あったよりも増えているような気がしたし、肌の色もくすんでいるように見えた。口を開けば、いつも通りうるさいくらい元気であった。ただ、その姿は、やっぱり小さかった。

社会人となって以来、それまで毎日居続けた実家を離れた。実家に帰るのは大型連休くらいとなっていた。このとき会うのも、久しぶりだった記憶がある。

母親は、その間にもどんどん小さくなっていたのだ。
私は母親の姿をみて、人は何かを失いながら生きているのかもしれないと思った。

私は若い。だから、どんどん成長している。勉強し、身体を動かし、仕事をしていく中で、できることはどんどん増えている。その方向の数だけ道は広がっていて、何にだってなることができる。

その中でも、確実に失いつつもある。私は学生という身分ではなくなり、未成年ではなくなり、身長は180センチを越えることはない。私の目指していた俳優の道、朝の連ドラに出る夢も、おそらくもう失われている。成長の中で夢見ている道の先は、もうとっくのとうに先などなくなって、あるべき道に合流しているのかもしれない。

人間はなにかを得ながら、なにかを失っている。若い私には、この得ているものしか気づけなかった。しかし、その裏で、確実に、なにかを失っている。私が生きている日々の中で、私は衰えていき、手ですいとった無数の可能性は、砂のように指の間をボロボロとこぼれ落ちている。私は、強い無力感を感じた。

ただ、母親は、小さくなりながらも、不幸には見えなかった。
全てはなるように、ケ・セラ・セラなのかもしれない。失うものも、得ているものも、ないのかもしれない。

人の人生とは何なのだろう。人のあるべき姿とは、幸せとは決まったものだろうか。そんな漠然とした戸惑いを覚えた。