新天地


– 2018-03-23, Legian beach, Bali

アメブロから独自ドメインサーバにブログ移転しました。
今後も変わらず(といっても少ない更新頻度でしたが;)
ブログ運営していきたいと思っております。

今後もなにとぞよろしくお願い致します。

moffy

稼働時間ではなくて「集中力」

お久しぶりである。気づけば半年ぶりである。

私は社会人3年目となった。日々はそれほど変わらない。仕事の内容も変わらないし、生活もそれほど変わっていない。変わらない日々を過ごしていると、発信するものもない。

大学を卒業して、早3年が経つ。塾講師だったのも、昔の話という気がして、教育からもすっかり身体も心も離れてしまった気がする。あれほど熱意を持って教育に向かっていくぞ!といった意思や教育で大成するといった野心も消えかけている。

代わりに何か立ち上っているものがあるかというわけでもない。結局は、仕事も生活も張り合いがなく、刺激もなく、生活に飽きているのである。このままじゃ腐ってしまう、という焦りのもと、いまブログを書いている。

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最近、久しぶりに本を読んでいる。

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく/ダイヤモンド社
ホリエモンが刑務所から出てきて一発目に書いた本である。

彼にとっての「働くこと」の思いが綴られている。インターネット黎明期を支えた時代の寵児は、何を思って生きていたのか。彼にとって働くこととはなにか、生きることとはなにか。僕みたいな「もう働くの嫌だ、仕事やめたい」人間にとっては大変刺激となる内容であった。

未来がみえてこないなー、とか、このまま生きててよいのかなー、みたいな思っている方は是非手にとって見ると良い。

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最近、日中の集中力が足りない。仕事に集中できないのが悩みである。

以前、睡眠時間についての記事を書いた。何のためによくねむるのか、というと、やはり日中のパフォーマンスを最大限に高めるためである。睡眠についてはこの記事で述べたようなことを実践しているつもりだ。

だが、どうしても、あたまがくぐもってしまう。よく仕事に集中できない。どうしたものか。

私は受験時代、1日14時間勉強をほぼ毎日継続していた。それでも、余り疲れたり、集中力がなくなったりした記憶が無いのは、やはり私が若かったからだろう。

いまは大体1日の業務時間は10~12時間ほどであるが、これを毎日続けていると、月曜は調子がよいが、金曜には息切れする。いや、既に木曜日の昼くらいから、ほとんど脳は働いていない。繰り返し同じことをしたり、メールを読みふけったりしている。

ホリエモンも、先の著書で1日必ず8時間眠っているといい、それは「集中力こそがもっとも大切だから」というようなことが書いてあった。

いたずらに勉強時間を増やすだけではダメなのである。集中力はMAXに保つには限界がある。集中力をMAXに保てる時間をなるべく長くする工夫が必要である。

だから僕はしばらく「集中力」をテーマに試行錯誤してみようと思う。答えはまだわからない。有益な情報があったら、是非提供してほしい。

また、成果がでてきたらここに書こう。では。

ここまで努力をしてきたあなたに センター試験を前にして

最後の最後まで精神論を。

「無駄な努力」という言葉があるように、努力が必ず実を結ぶとは限らない。受験記にも書いたように、私は浪人受験の末、センター試験のマークミスにより第一志望合格を逃した。人並みか、それ以上に努力して受験勉強してきた自負はあった。にも関わらずだ。

振り返れば、どれだけ頑張っても結果がついてこなかった経験はいくらでもある。中学高校時代の部活、高校時代の片思い、大学のサークル活動での夢。その当時はそれなりに頑張ったつもりであったが、どうしても結果はついてこなかった。

敗北の度に、「俺なにしているんだろう」、という無力感に苛まれた。人生には無数の勝負がある。いくら努力しても勝てないのであれば、何を苦しんでまで戦う必要があるのだろう。苦しいなかで、目標に向かって行くことの虚しさを感じたこともあった。

でも、本当はやっぱり勝ちたかった。

辛いのはわかっていたが、逃げることができなかった。たまらなく勝ちたいのだ。だから、負けじと勝負を挑んだ。

かなりの数を負けてきたが、実は、負けよりかははるかに少ないが、たまに勝てた。2割くらいの確率で勝てた。勝った時の底知れぬ喜びが、私をまた勝負に向かわせた。

勝負の中でわかったことがある。
自分よりも高いレベルの戦いに勝つためにはどうすればよいのか。それは結局、

 努力すること

それにほかならないのである。勝負に対して、真摯に向かっていく。まっとうな努力をしていく。それしか手段はないと思っている。

どんな時だって頑張るしかできないのだ。受験だけじゃなく、人生の中で勝負はいくらでもある。それに対して、取れる行動は2つに1つ。やるか、やらぬか、である。

やらないことは、負けだ。勝てる可能性は0に等しい。負けたくなのであれば、やるしかない。やるしかないのである。

いま、センター試験を目の前にして、恐怖を感じるかもしれない。センター試験が終わった後、厳しい現実に直面するかもしれない。これ以上がんばっても仕方ないと思っているかもしれない。

でも、君がもし、それでも勝ちたいのであれば、やるしかないのだ。どんな境地であろうと、やるしかないのだ。とにかく前に進んでいく。努力する。いつなんどきだって、勝負に勝つには、やるしかないんだ。

負けるが勝ち、とか、いまは休みの時とか、そういう発想は高等戦術だ。勝負を見極め、そこが抜きどきだと判断した時にできる技だ。レベルが高い。
不安だ、とか、やっても無駄じゃないか、みたいな思考のときの停止は、ただの逃げだ。勝率を下げているだけだ。

勝ちたいのなら進もう。努力を重ねていく。どんなに負けたって、いつか勝てる。

努力をしたらからといって、必ず勝てるわけではない。
しかし、勝った奴は、すべからく努力している。
これが、真理である。

2014年度の受験生に贈る。必ずや勝ちを得られることを心より祈る。

後悔をする、ということの意味

後楽園
2014/12 後楽園

後悔、という感情は、文字通り、あとから以前の行為を悔いる感情である。

個人的な経験としては、以前の行為時点で、全く頭になかったことを悔いることはない。全く頭になかったことは、そのあとの時点でも頭にはない。なんか出来なかったけど、相手が悪かったな、ということで諦めることができる。

後悔とは、それをやろうと、頭には一度浮かんだにも関わらず、やらなかったときだ。面倒で先延ばしにしたとか、そもそもやる時間がとれなかった、理由はあるだろう。一度はやるべきだ、と思っていたものの、何かしらの判断でやらなかった、その判断ミスに、私たちは悔いるのだ。

しかし、後悔があるからと言って、本当に行動が誤っていたとはいえない。

限られた時間の中で取捨選択は必須であり、異なった判断をしていれば、片方の選択は出来なかったことになる。二者択一、どちらをとれば、どちらかを捨てる。

これを乗り越えるには、後悔をしないためには、判断力を高め、間違えた選択をしない。あるいは、二者の両者を取る。つまり、全てやるしかない。

実際には、どちらとも難しい。判断力を向上は、先読みの技術であり、もちろん身につけたい技術だが、それは容易ではない。両方やる、でいく場合には、潤沢な時間と体力が必要。そもそも前提が異なる。

だから、限られた時間の中での二者択一は、後悔となる可能性はそこそこある。後悔をするな、とは言うが易しで、それはかなり難しいのである。

ただし、後悔の中で、回避可能なものがある。それは「やる」「やらない」の2択を迫られて、やらない、をとり失敗した場合の後悔である。「やらない」結果、他の行動をするならばよい。ただ、それをやらず、戦略的でない休息を取る、行動しない。それが怠けであると判断される場合。怠惰な行動を取った場合だ。

怠惰は、真面目な人間にとって最もの後悔だ。結果がでない原因は、怠惰である、となったらどうだ。情けないぜ。あとからやっておけば、となるのは、悔やんでも悔やみきれない。

だから、やろう。行動をしよう。センター試験まであと2週間だ。ネットサーフィンしている場合じゃないぜ。行動を天秤にかけろ。本当にやらないことに価値はあるのか、自分に問いかけるのだ。

結局、何が言いたいかというと、

 じゃあいつやるの?今でしょ!

である。

あけました!

seto
2014/12 しまなみ海道

あけましておめでとうございます。

2015年だ。今年は行動、とにかくチャレンジングに、恐れず突っ込んでいくことを大切にしていきたい。動いて動いて、自分を動かしていく。動いていくなかで変わる自分を楽しむ。そんな、成長あふれる1年にしていくぞ。

今年もよろしくお願いいたします。

最後の最後まで手を抜く事なかれ/2014年ありがとうございました。

naoshuma
2014/12 直島

2014年はどのような年だったでしょうか。

今年の目標は100の新たな経験をすることであった。さっき手帳を振り返ってみたけど、100とは言わないまでも、様々な経験ができた年だったと思う。社会人として、まともに仕事が始まっていく反面、休日は休日であまり暇することなく、刺激的な経験を多くすることができた。

仕事は仕事で大切なことで、しっかり向き合っていきたい。ただそれだけが人生ではなく、万が一職を失ったとしても私の人生は続いていくのである。仕事しか生きる意味が見出せないとないというのは、少しさみしい。

視野狭窄にならず、自分の行く末をひろげていく。ただ、それは漫然と生きていては難しいから、それができる余裕を作り出す努力をしていく。自分の在りたい姿に向かって、来年も頑張っていこう。

今年も有難うございまいした。

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受験生にとっては、終盤も終盤、クライマックスを迎える時期である。
私の受験時代の年越しは受験期にも書いた通り、勉強に没入するという精神修行スタイルであった。ああやって身を削りながら勉強に没入した経験も今では良い思い出。

大学受験なんて部活動以上に結果主義で、プロセスがどんなによくたって、結果さえでなければ、志望校にさえ受からなければ、いくら努力したって無駄になってしまう。なんてことを受験生だった当時は思っていた。結局、私は志望校に落ちてしまって、浪人含め1年以上の受験勉強の結果は望んでいたものではなかった。

ほとんど同じ時間を生きた同世代同士の戦いの中で何が差がついてしまうのだろう。地頭の違い、は意外と大した要因ではないと思っている。生まれ持った素質のみで勝負が着く世界ではないのだ。

受験は、受験期その時点一点の勝負ではない。それまでの生き方であり、人生であり、約18年間の中で培ったものの差であるのだ。勉強や目標に対する姿勢であったり、勉強の仕方であったり、長時間の勉強を継続する集中力や精神力であったり。それは、そのひとのひととなりに依存するのだ。

そう思っているので、私が受験失敗により受けた敗北感は、かなりのものであった。自分の生き方を否定されたようなものだ。自分の人生はなんだったのか。そんな思いだった。大きな後悔があった。

ただ、それでも、あの1年を、私は全力で生きていたのは確かである。特に、9月から年越しくらいまでの一心不乱で勉強に打ち込んだ経験は、今の自分への励みになり、自信になっている。あそこまで頑張れたから、今も出来る、という自信。

先に言ったように、受験はそれまでの生き方の総決算という一面はある。そして、受験後の人生でも、勝負のときは、その時には受験を含めたその人生の総決算で戦うこととなる。その意味で、受験の努力は、結果だけではなく、そのプロセスが大きな意味を持つこととなる。

君が今頑張れること、受験に全身全霊を傾けることは、目先の受験結果のみならず、のちの行き方、勝負に影響を与える。頑張れるということは、簡単のようで、誰にもできることではない。それはとても大変なことだ。それを成し遂げることは大きな意味を持つ。

もちろんいまの努力が、目の前の受験結果に大きな影響を与えることは明白だ。直前期がとても大切であり、ここでの努力が大きく結果を左右する。

身を粉にして、全力で勝負してほしい。
大学生活と、今後のながーい人生の勝利を勝ち得るために、だ。

2015年、君に幸あれ!
良いお年を。

因果法則

虹

原因があるから結果がある。因果である。
時に宗教的な意味で語られたり、哲学として、ビジネスノウハウとして、処世術として、
私達の身近なところの存在する、事実だ。
火のないところに煙は立たぬ。

しかし、すべての原因と結果に因果関係が成立するわけではない。
原因と結果の相関関係には、度合いがある。
因果にすごく関係があるものと、そんなに関係のないけど、そう思い込んでしまうような場合がある。
例えば「風吹けば桶屋が儲かる」は、因果の結びつきは疑う余地がある。

 大風で土ぼこりが立つ
 土ぼこりが目に入って、盲人が増える
 盲人は三味線を買う(当時の盲人が就ける職に由来)
 三味線に使う猫皮が必要になり、ネコが殺される
 ネコが減ればネズミが増える
 ネズミは桶をかじる
 桶の需要が増え桶屋が儲かる

土埃がたてば、必ず眼に入るのか?目に入ったら盲人になるのか?
盲人は三味線を買うのか?・・・
最終的な「桶屋が儲かる」という段階にまで行くにはどれだけの道のりか。

受験も似たようなものだ。

「勉強すれば合格できる」
当たり前なのだろうか。火のないところに煙は立たぬ、か。

すべての勉強は合格にいたるのか。
それは違う。

勉強と合格の結びつきは100%か。

そんなことはない。
勉強と結果とは本来、異なった事象である。
「火」と「煙」のような物理的な関係はないからだ。
「勉強」と「合格」の間の隔たりに、受験の難しさがある。

原因のないところには、結果は生まれない。

もちろん、勉強せねば結果は得られない。
その土台に立った上で、次は「この行動は結果に至るのか」が問題だ。

その答えは、考えぬいた先にある。

たった一つの答えはない。
それぞれにベストな答えがある。
各々のスタート地点は異なるのであり、
ベースであるその人の性質・性格が違うからだ。


自分の答えは、自分で出すしかないのである。

必要なのは、考えることだ。
考えることで、私たちはどんな壁だって乗り越えることができる。

考えれば、自ずと答えは見つかるはずだ。
考えぬ行動に結果はない。

センター試験まであと100日ちょっと!

http://kiru2ch.com/archives/40249718.html
100日で東大に受かるには/2ちゃんを斬る

センター試験まであと100日ちょっとらしい。
正確に言えば本日9月19日からあと119日とのこと。

上の記事のように東大に100日の勉強でいけるかどうかは怪しいところだけど、前回の記事にも書いたとおり、3ヶ月前というポイントはまっとうな受験計画でいえば一つのターニングポイントとなる。

夏休みも終わって、学校が始まって、模試もちらほら始まっていく、この時期に改めて自分の行末と計画を見なおしてみよう。たまには立ち止まって、自分に問いかけてみよう。

 志望校合格には何が必要か、それは100日間で終えることができるのか?
 苦手な科目や遠回しにしてきたセンター試験対策はいつやるのか?

勉強にのめり込んでいってしまう時期だけど、絶えず残り時間と自分の状態に気を配り、正しい方向に進んでいることを意識し続けよう。

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私の受験時代、現役も浪人も、9月以降はあっという間に時が過ぎていった。受験本番も近づいてきて周りも本気になっていって、学校や予備校の雰囲気も変わっていく。集中力も一段と高まっていった。

つらい時期ではあるけれど、本当に、文字通りあっという間に過ぎていく。いままで多少サボっていても、まだまだ十分挽回できる時期だ。案外、追い込まれると、想像以上の集中力を発揮できるもんだ。

諦めず、自分の行きたい道、夢をしっかりイメージする。それでいて浮かれず、油断せず、地道に勉強していこう。

頑張れ受験生。ゴールは近い。

母親が入院して感じたこと

羊蹄山
2014年7月 北海道 羊蹄山

先月母親が入院することになった。

大ごとではない。母親はもともと肌が弱く、アトピーの持病を持っていた。ステロイドを使った治療を続けてきたが、それももう高齢と言われる母親には毒となるということで、脱ステロイドに踏み切った。結果、当然だがステロイドによって抑えていたものを表面化することとなった。

日常生活にも支障をきたし、髪の毛が抜けるなどの症状にも至るようになったし、ここは1度しっかり治療に専念しましょう、ということで入院することとなった。死に至る病などではなかった。

入院中に出会った母親は、とても小さく見えた。髪の毛もかなり抜けてしまったし、文字通り小さくなったのは事実である。顔のシワは以前あったよりも増えているような気がしたし、肌の色もくすんでいるように見えた。口を開けば、いつも通りうるさいくらい元気であった。ただ、その姿は、やっぱり小さかった。

社会人となって以来、それまで毎日居続けた実家を離れた。実家に帰るのは大型連休くらいとなっていた。このとき会うのも、久しぶりだった記憶がある。

母親は、その間にもどんどん小さくなっていたのだ。
私は母親の姿をみて、人は何かを失いながら生きているのかもしれないと思った。

私は若い。だから、どんどん成長している。勉強し、身体を動かし、仕事をしていく中で、できることはどんどん増えている。その方向の数だけ道は広がっていて、何にだってなることができる。

その中でも、確実に失いつつもある。私は学生という身分ではなくなり、未成年ではなくなり、身長は180センチを越えることはない。私の目指していた俳優の道、朝の連ドラに出る夢も、おそらくもう失われている。成長の中で夢見ている道の先は、もうとっくのとうに先などなくなって、あるべき道に合流しているのかもしれない。

人間はなにかを得ながら、なにかを失っている。若い私には、この得ているものしか気づけなかった。しかし、その裏で、確実に、なにかを失っている。私が生きている日々の中で、私は衰えていき、手ですいとった無数の可能性は、砂のように指の間をボロボロとこぼれ落ちている。私は、強い無力感を感じた。

ただ、母親は、小さくなりながらも、不幸には見えなかった。
全てはなるように、ケ・セラ・セラなのかもしれない。失うものも、得ているものも、ないのかもしれない。

人の人生とは何なのだろう。人のあるべき姿とは、幸せとは決まったものだろうか。そんな漠然とした戸惑いを覚えた。

光陰矢の如しとか思ってたら社会人も2年目

4月下旬 岐阜・萩町城跡からみた白川郷の街

ご無沙汰しております。
いろいろ書こうと思っていたことはありましたが、いざPCに向かうとなかなか筆が進みませんでした。真面目なことを書くのはなかなかエネルギーがいるのね。今日も適当な近況日記です。

■社会人2年目となりました。

とはいえ、後輩は8月以降配属なので、これといって2年目になった感覚はありませんが。

社会人1年目は新人という扱いで、何かとちやほやされたり、失敗も許されたり何かと特別扱いです。上司からもお客様からも甘めに見られます。特権ですね。小中高だと組織構成員がMAX4段階ですが、社会人は20段階はあるということになります。20分の一の特権ということで特別さも一入。

2年目ということで特権もなくなり、いち構成員として会社の利益貢献をしていくことを求められます。上20段階と同じフィールドで戦っていくのです。言い訳も効かないというわけです。

後輩はまだいませんが、仕事の中身は、だんだんとステージが上がっていくように感じています。学歴も出自も関係のない、能力だけで戦っていくことが求められます。

底力となるのは、何より大学で培ってきたものです。大学で学ぶことは社会に出て必要ないと言われることもありますが、出せるものはそれしかありません。社会人になって身に付けるものもありますが、そのベースになるのは、それまでの生き様です。

大学で身につけた知識・価値観・教養・ノウハウ、そのすべてを動員して戦っていきます。

■4月は仕事と資格勉強

仕事は夜22時までみっちり、週末は半年に1回の情報処理試験に向けた資格対策勉強と勤勉な一月でした。

試験で受けた科目は「データベーススペシャリスト試験」。IT系の国家資格の中でも、上の下くらいのランクの試験なのです。

問題のほとんどが記述試験。知識というより紙上で実務能力を示すような試験で、その場で考えて解きます。もちろん、テクニックが大きな幅を利かす試験なのですが、試験対策は暗記をほとんど必要としません。

勉強は非常に楽しかったです。京大入試の英語国語を勉強する感覚と似ていました。「暗記を目的とした勉強というのは負荷の高い苦しいもの」との認識を改めて持ちました。この経験を受験勉強のあり方につなげていけないかなと感じます。

■GWは飛騨高山へ

GWは会社からお休みをいただき、飛騨高山へ。長年の夢であった、白川郷に一泊しました。

高校の頃、「ひぐらしのなく頃に」というゲームが流行りました。私もプレイしていました。舞台は白川郷ということで、「いつか聖地巡礼をしたい!」と思っておりました。

当時の「いつか聖地巡礼をしたい!」という思いが、実に8年ぶりに叶いました。「ここ、あのシーンの場所だ!」と感動の連続。まさに積年の思いかなったり。

飛騨高山や白川郷という地は、街が丸っと歴史を残しています。京都ほど広くはなく、コンパクトにまとまっており、異世界観を感じます。

当時の生活・文化に思いを馳せるとともに、歴史を保存するとは何か、なんてことを考えました。住んでもいない街に、何か懐かしさを感じます。「心の故郷」というやつでしょうか。人間の純粋な営みが凝縮されているのでしょうか。面白いですねえ。