世の中には腐るほど受験合格記はあるが、受験失敗記はあまりない。商業的にあまり意味がないからであろう。
しかし、反面教師という言葉もあるように、誰かの失敗から学ぶこともあると思う。それに、合格体験記というものを参考にする際、それのみを信奉してはいけない。失敗体験記も含め、いくつかの受験記と相対的に見比べないとうまく機能しないからである。
ここに、もう4年前となる現役時代を振り返り、合格校0という黒歴史とも呼べる私の現役受験の軌跡を、記したい。
中学時代の成功体験
もともと、物覚えが良いほうではなかった。
小学校時代は、習い事も続かないし、運動もできないし、勉強もできなかった。通知表は×ばかりが並び、当時の母親は「この子はダメな子なんだわ」とあきれていた程であったという。中学受験なんて夢のまた夢で、およそ生まれつき頭がよかったとは決して言えなかった。
しかし、中学に上がると打って変わって勉強ができるようになった。きっかけがあった。たった一度のきっかけ。1年の1学期期末試験で、たまたま勉強する気になって、そして勘もあたって、ものすごく成績が良かった。単に運がよかっただけなのだが、そのおかげで周りからとても褒められた。「勉強ができるってこんな気持ちいことなんだ」と知った。私は、継続して努力し、中学時代通して成績を維持した。いわゆる成功体験といううやつだ。成績は5段階中でほとんど5だったし、学内の試験は10番以内には必ず入っていた。
それでも、受験にはそれほど興味はなく、まして大学受験なんて考えもしなかったので、あまり進学に力を入れていない公立高校を目指した。中3の夏から塾に通いだし、地元で一番偏差値の良い(神奈川では10番目くらい)公立高校に進学することができた。東大に3年で1人くらい、早慶に現役浪人合わせて30人ほど進学するレベルの、公立上位校といったところだろう。
結局、中学を通して勉強では挫折知らずで、そのおかげで「自分は勉強ができる人間なんだ!」という自信とプライドが形成された。
高校時代の怠惰
高校時代は、およそ受験勉強などとは程遠い暮らしをしていた。
部活動のハンドボールに打ち込み、高校の大半はグラウンドで砂にまみれて過ごした。週7日で練習をしてたから、当然塾にも通えず、というか通う気さえなかった。そのせいで、学校の成績は中学時代の見る影がないほどに低下した。中の下あたりでうようよしているようで、中学時代得意だった理科は壊滅的にできなくなった。
そうこうしているうちに高校3年生になり、受験期に入った。高3の5月まで部活が続いたため、私の受験勉強は5月から始まった。とりあえず、代々木ゼミナールに通い始めた。
夏までに志望校を早稲田大学教育学部に決めた。
理由は、私の目指していた教育学部がある中で、最も偏差値の高い私立大学だからというもので、非常に安直である。偏差値しか見ていなかった。国立はもう間に合わないから私立にしようと思った。私立3科だったらちょっと頑張ればどこでもいけるだろうという安易な考えがあり、私大の頂点を目指した。高校受験時に対して努力もせずに志望校に受かったあのプライドから、受験をそう難しいものと捉えていなかった。
高3の5月から勉強を始めた割には、初めて受けた代ゼミマーク模試の結果は上々であった。偏差値がそれぞれ、英語:60.7、国語:58.2、日本史:61.0で3教科偏差値が60.0。7月模試だったから、勉強を始めて2か月ほどで早稲田はC判定。調子のっていいほどでもないが、2か月でC判定だと浮かれていた。
夏休みは一日平均8時間くらいの勉強を続けたのではなかろうか。結構やっているようにも思えるが、夏休み後半から体育祭の準備があったり、あまり勉強に身が入らなかった。代ゼミでは早大英語と早大現代文、早大古典、あとなぜか上智大英語という講座を受講した記憶がある。夏休み後半ごろに早大プレ模試があった。あまりに難しく、とても危機感を募らせら記憶がある。しかし、本来エンジンが入るべき夏休みで、私のモチベーションはなかなか上がらなかった。
2学期がはじまっても、ぼんやり勉強をしていた。途中怠けたり、高校生らしく文化祭体育祭があったり、勉強に身の入らない期間もあった。特に体育祭は高校の中でも最も気合の入ったイベントであり、8月後半からは1日中学校にこもり準備に明け暮れた。9月2週の体育祭までは、あまり集中的に勉強した記憶はない。
それまでの怠惰が祟ったのか、9月以降、偏差値は思うように伸びなかった。11月の早稲田プレがD判定、12月のセンタープレが3教科で偏差値56.4、判定はD判定。具体的にどのような勉強をやっていたのかはよく覚えていないが、英単語帳(単語王)が最後までいったのが12月、古典文法が完成したのが12月、日本史通史終えたのも1月くらいであったので、単純にペースが遅かった。また、私は赤本を解くのが嫌い、というか怖くて、ずっと後回しにしていた。最終的に赤本を解き始めたのが2月だから、あまりにも遅い。
現役時代の受験、そして浪人
志望校は早稲田大学教育学部のまま変えなかった。併願校として早稲田文学部、社会科学部、上智大学経営学部に出願した。滑り止めは一つも出さなかった。落ちたら浪人という覚悟があったというわけではなく、実のところ、正直落ちる気はなかった。それくらい私は自信家だった。現実的に物事を見つめる能力は、ほぼ皆無であったと思う。自信家というよりは、向こう見ずである。
センター試験は久しぶりに会った地元と友人とプチ同窓会のように盛り上がり、楽しかったという思い出しかない。完全に気が抜けている。早稲田大学入学試験日も、昼休みに中学時代の友人と思い出話にふけるなど、あまりに緊張感の欠いた受験をした。
結果は案の定、全滅。
一つの大学にも引っかからずに浪人が決定した。自信はあったが、なんとなく落ちるだろうという気もしたので、すんなりと現実を受け止めた記憶がある。悔しさがなかったとは言えない。もともとプライドは高いわけだから、周囲への劣等感は耐え難かった。しかし、こうまでしても、「自分には時間が足りなかっただけだ。あと1年やれば余裕余裕」と思う自分もいた。あまりにも楽観である。
こうして1年を振り返ると、なんともぼんやりした大学受験であった。そしてぼんやりと浪人が始まったのである。
なんでもない、ただの敗者であった。
このころには、想像もできなかった。
1年後、全身全霊で京大対策に向かう私の姿を。
すべてをかなぐり捨てて、死ぬもの狂いで机に向かった日々を。
このとき、私の受験勉強は、まだ始まっていなかった―
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